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千倍王鷹虎蝗合成獣

平成仮面ライダーの感想・考察サイト。衒学的で悪し様で居丈高な語り口のブログにようこそ。

『クウガ』英雄と怪人と警察の「暴力」(改)

01_クウガ 91_スタッフ

 例えば、以下のような『クウガ』批判があったとしよう。

(1)非暴力が主題なのに憤怒と憎悪の感情露わに怪人を殺害する主人公。
(2)死んだ主人公が蘇生してパワーアップするのは非現実的かつ不謹慎。
(3)グロンギがゲゲルでリントを殺戮するようになった経緯が一切不明。
(4)リントと共存した/を試みたグロンギが一人もいないのはおかしい。
(5)対し、三条陸脚本は性善説に則られ、悪人が改心する話も存在する。
(6)人間だから互いを理解でき、怪人だから解り合えないという謎理論。
(7)実際 EPISODE43「現実」ではグロンギではなく人間が犯罪者だった。
(8)人間同士の戦争は無くならず、綺麗事が通じる程世の中は甘くない。

 あなたはどう答えますか?今回は「そういう」お話です。

■登場人物紹介

高寺 成紀:1962年09月28日生誕。『クウガ』のチーフプロデューサー。
白倉伸一郎:1965年08月03日生誕。『クウガ』のサブプロデューサー。
荒川 稔久:1964年03月14日生誕。『クウガ』のメインライター。
井上伸一郎:1959年01月28日生誕。株式会社KADOKAWA代表取締役専務執行役員
切通 理作:1964年02月21日生誕。『特撮黙示録 1995 - 2001』の著者。
國分功一郎:1974年07月01日生誕。高崎経済大学の准教授。
宇野 常寛:1978年11月17日生誕。『リトル・ピープルの時代』の著者。
2016年:『ウルトラマン』生誕50周年、『仮面ライダー』生誕45周年、『スーパー戦隊』通算40作目、国産『ゴジラ』復活、昨年は『ガメラ』生誕50周年。正にヒーローイヤー。

■「宇野 常寛」と「切通 理作」

 ソフトで追いかけていって気になったのは、なんかこれヤバいぞと。まぁ一言で言うと、なんかこう、これっていうのは民族虐殺みたいな話だよな、っていう、ことなんですよ。あの~、この本でも、すごくあの國分さんとね、あの~、哲学者の國分功一郎さんと、やっぱ白倉プロデューサーもね、対談でもその話触れられていますけど、なにかこう、『クウガ』ってこう、とにかく、やっぱグロンギ、がやっぱ悪いんですよね。悪いっていうかもうホントに、何十人も一人で殺したりするじゃないですか。で、で、もうひたすら殺しまくっていて、あの、普通に考えたら『クウガ』ってホントに、あの民族Aと民族Bがいて、民族Aが民族Bを滅ぼしてる虐殺してる話なんですよね。で、それがなにか、あの勧善懲悪の、やっぱ子供番組の、なんかこう話に見えるように、すごくやっぱりグロンギを、なんか目茶目茶人を殺してる、こう一人で九〇人も殺すような、問答無用のテロリストがいるんだからもう射殺するしかないだろうみたいなことに持ってっちゃってんですよね。で、それがなんかもう『クウガ』の、緊張感を生んでることは間違いないんだけど、うんなんか冷静になって、考えると、ヤベぇなって。だから、『クウガ』ってけっこう表面的には、なんか人間の真心って大事だねみたいな、なんかこう『さ…』なんか道徳の授業みたいな話じゃないスか、なんかこうメンタリティ的な。でも、実際にやってることを冷静にし…考えてみると、なんかすげぇなんかこう、虐殺っぽい?民族Aが民族Bを容赦なく虐殺するみたいな、そういった世界観に突入していて、うわぁとかヤベぇ、みたいな。

 これは、『ニコニコ生放送』の「平成仮面ライダーを語る」(2012年08月25日放送)での宇野常寛による『クウガ』批判である。"『さ…』" と言い掛けているのはNHK教育テレビ番組『さわやか3組』のことである。対談していた切通理作はこう述懐していた。

――(中略)『クウガ』については、かなり意見が分かれてましたよね。宇野さんは人間が容赦なくグロンギを滅ぼす民族虐殺のような話に見えてヤバいと思ったと仰っていて、切通さんはそれに対して反論されてて。
切通 その後の平成ライダー作品と比べると『クウガ』は勧善懲悪的に見えるという意見は、僕も理解できるし、そういう考え方もあるんだなぁとは思うんですよ。
 でも、たとえばファーストガンダムにしても、今から振り返ると旧来のロボットアニメの要素を残しているところってかなりあるじゃないですか。すべてを一度に新しくすることはできないし、当時の体制であれだけ出来れば、ひとつの改革だったと思うし。あの時点でいきなり『イデオン』をつくっても、理解されたかっていうと、それってかなり難しいじゃないですか。
――『ガンダム』の後に見ても、かなり難解ですもんね。
切通 『イデオン』であれだけ哲学的な話を展開できたのは、やっぱりファーストガンダムという下地があってこそだと思うんですよね。それでも『ガンダム』は同じ富野さんの問題作『ザンボット3』や快作『ダイターン3』と比べても革新的に新しかったわけで。
 それと同じように『クウガ』の改革を基にして、たとえばその時点ではまだやらなかった連続ドラマ的な試みを『アギト』でやったり、『アギト』のライダー同士のバトルをさらに発展させて『龍騎』になったりしたと思うんです。
切通理作『語ろう!クウガ・アギト・龍騎 【永遠の平成仮面ライダーシリーズ】』より)

 これ、わざわざ富野由悠季のアニメ作品(『無敵超人~』『無敵鋼人~』『機動戦士~』『伝説巨神~』)を引き合いに出す必要あるのかなぁと、『語ろう!クウガ・アギト・龍騎』を読んだ時に自分は首を傾げた。『クウガ』は当時の体制であれだけ出来れば一つの改革だった、即ちホップ・ステップ・ジャンプの『ホップ』だったから甘めに見ないと!と言ってるように聞こえてしまい、擁護としては弱いし、フォローになっていないのだ。是程までに理屈を捏ね繰り返さなくても、テレビ本編を視聴すれば『クウガ』の主題が英雄と怪人と警察の『暴力』の否定というのは明々白々(のはず)である。先ずは、その「お浚い」から入っていこう。

■「井上伸一郎」と「高寺 成紀」

 『クウガ』のテーマを<非暴力>にした理由の中で、高寺成紀が口を噤んでいたものがある。その内容は、㈱KADOKAWA井上伸一郎の口から語られることとなった。

 高寺は、五代というキャラクターを基本的に正しい生き方をする青年と位置付けた。すなわち番組を観る子供達の手本になるべく設定された。
 これには、番組製作以前に、高寺が友人から投げかけられたショッキングな言葉が深く関係している。曰く、
 最近、子供達の間のいじめが社会問題になっているが、あれは相手を寄って集って痛めつける東映特撮番組の悪影響だ
 この言葉に、高寺は激しく動揺したという(高寺は『クウガ』以前、戦隊シリーズのプロデューサーを三年間務めていた)。自分たちが創っている作品が子供を傷つけるのであれば、それは正さなければならない。友人に対して、ある意味過剰反応した高寺は、五代雄介をぶれない正義として設定してゆく。常人には理解できないほど安定した精神で自らの過酷な状況を容認してしまう五代。人々の幸せを守るため、率先して自己犠牲を引き受けるその姿勢は、高寺が子供達に見せなければいけない、と信じた理想の正しい生き方だった。
井上伸一郎ユリイカ2012年9月臨時増刊号 総特集=平成仮面ライダー』より)

 高寺成紀は『激走戦隊カーレンジャー』(1996年)、『電磁戦隊メガレンジャー』(1997年)、『星獣戦隊ギンガマン』(1998年)でチーフPを務めており、スーパー戦隊』こそ“いじめ”の元凶という批判が、後の『クウガ』(2000年)や『響鬼』(2005)の作風を決定付けることになる。

■『クウガ』EPISODE34・35「戦慄/愛憎」

 これを語るためには、EPISODE9・10「兄妹/熾烈」について言及しなければならない。五代雄介の妹、みのりは保育園に勤めており、そこには社広之という園児(準レギュラー)がいる。『クウガ』の序盤の臍は、クウガ仮面ライダー)もグロンギ(怪人)も同種(未確認生命体)として扱われることであり、クウガのマイティ(基本)フォームは4号と呼称されているのだが、他のグロンギ(殺人鬼)を倒してくれる4号は、広之くんにとっての英雄(ヒーロー)である。

広之くん 「ねえ、先生、4号って、良い奴だと思う?」
みのり先生4号?未確認生命体の?
広之くん 「そうに決まってるでしょ!」
女の子  「悪い奴だよ。未確認生命体だもん。」
広之くん 「お前に聞いてないよ!」
女の子  「あ~!お前って言っちゃいけないんだよ~!」
みのり先生「そうだなぁ。」
男の子  「いいから言って。」
広之くん 「良い奴だよね!ママの読んでる本に、書いてあったもん!」
みのり先生…いい人でいてほしいよね、ずっと。
(『クウガ』EPISODE9「兄妹」より)

 ところが、保育園でちょっとしたイザコザが起こる。女児が探している絵本を、別の男児(寺島周斗)が一人占めしていたのだ。広之くんは正義感にかられ、女児に絵本を取り返すと宣言する。自分は4号だからと。

女の子 「あれ~?『花咲か爺さん』の絵本な~い。」
広之くん「周斗くんが見てたよー。」
女の子 「え~…!」
広之くん「取ってきてあげようかー?」
女の子 「本当~!?」
広之くんだって僕、4号だもん!
(『クウガ』EPISODE10「熾烈」より)

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 超ドヤ顔である。その後、「貸して!」「嫌だ!」と広之くんと周斗くんは口論になるのだが、次第にエスカレートしていき、殴る蹴るの喧嘩になってしまう。仕舞には、奪った絵本で周斗くんを殴ろうとする広之くん。「こら!やめなさい!」周斗くんを庇い、広之くんを叱るみのり。このエピソードの肝は、正義の題目を掲げても、暴力を振るうことは悪ということであり、これは暗に、仮面ライダーが怪人に振るうのも<暴力>であり<悪>ということを言っているのだ。

五代みのり「私ね、お兄ちゃんがクウガになるのは、仕方ないと思ってた。けど、けどなんか、なんとなく恐(怖)いの。お兄ちゃんが、お兄ちゃんでなくなっちゃうような気がして。
(『クウガ』EPISODE10「熾烈」より)

 それでも、五代雄介はみんなの<笑顔>を守るために戦うのである。この回ではタイタンフォームへの超変身に成功し、イカ種怪人たるメ・ギイガ・ギを撃退している。

五代雄介 「俺だって恐いよ。怖いさ。」
五代みのり「でもやるの?どうして?」
五代雄介 「お前はどうして先生やってんだよ?誰かの笑顔のためだろ?俺は俺の場所で、お前はお前の場所でやってるってだけさ。」
(『クウガ』EPISODE10「熾烈」より)

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 さて、いよいよEPISODE34・35「戦慄/愛憎」について。上述のエピソードの延長線上にある話で、広之くんと周斗くんは再び険悪なムードである。そんな二人に働き掛ける五代雄介。大丈夫!解り合えるよ。だって、人間同士なんだから。絶対大丈夫!と。ラスト、広之くんと周斗くんは無事仲直りし、積み木遊びに興じて本編は終幕する。

広之くん「ねえ、周斗くん、聞いて。」
周斗くん「…………。」
広之くん「ずるいよ、周斗くんは!いつも嫌んなると黙っちゃって。怒って叩いたり、本とか、投げたりして。そしたらもう、何も言えないんだもん。僕は、そんな周斗くんは、嫌い。大っ嫌い!でも、本当は、また一緒に遊びたいんだからね。」
(『クウガ』EPISODE35「愛憎」より)

 それとは正反対なのが、五代雄介とグロンギの戦いである。この回に登場する怪人はゴ・ジャラジ・ダ(未確認生命体42号)『クウガ』を語るには欠かせない存在で、ゲゲルの内容は十二日で緑川学園年生男子を九〇人殺すこと。ヤマアラシ種であるジャラジはターゲットの頭に針を仕込み、鈎針状に変化させて脳内出血を起こし、虚血性脳梗塞を招いて殺すのだが、対象が死ぬのは針を打ち込んでから四日後で、その間に姿を現しては相手に精神的苦痛を与え続けるのだ。

椿秀一「この遺体は、今朝八時二十二分、この病院で死亡したばかりの、八十二人目の緑川学園の生徒だが、これがおそらく、高校生達を次々に死なせていた原因だ。」
一条薫「(摘出された鈎針を見て)こんな物が頭の中に…。」
椿秀一「手術も無しに、これ程の物を外から入れることはまず不可能だ。出血範囲の分布から、死因が脳にあるという推測はされていたが、生前の検査では、レントゲンにもMRIにも、何故か何も映らなかった。
一条薫「あまりにも謎が多過ぎるな。」
椿秀一「あくまでこれは推測だが、被害者の体に、何らかの方法で入れられた物質が、一定の潜伏期間を経ると、突然、こんな脳を傷付けるような物に変化してしまう。
一条薫「外科的な方法で取り出すことは可能なのか?」
椿秀一「…………。(不可能、という面持ちの椿。)」
(『クウガ』EPISODE34「戦慄」より)

生田和也(最後の一人)「あの未確認の奴が言ってたんだ。俺達が苦しむほど楽しいって。その時の目が、本当に楽しそうで…。物凄く恐(怖)くて、だから…。」
(『クウガ』EPISODE35「愛憎」より)

 ジャラジの残虐非道さに、五代雄介は激昂する。ラスト、五代雄介はジャラジをマイティフォームでタコ殴りにし、ライジングタイタンフォームで滅多斬りにするのだ。

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「邪悪なる者あらば、希望の霊石を身に付け、炎の如く邪悪を打ち倒す戦士あり」

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「邪悪なる者あらば、鋼の鎧を身に付け、地割れの如く邪悪を斬り裂く戦士あり」

 普段は頼もしいアイデンティティワードが恐(怖)ろしく見える。ここでもまた、正義の題目を掲げても、暴力を振るうことは悪ということを描いているのだ。主人公に過剰な暴力を振るわせることで。この後、五代雄介はアルティメットフォームの幻影を見るのだが、販促もせず究極形態を<恐怖>の化身として描く制作陣が非常にシニカルで、並々ならぬこだわりを感じさせる。

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「聖なる泉枯れ果てし時、凄まじき戦士雷の如く出で、太陽は闇に葬られん」

■「白倉伸一郎」と「國分功一郎

 ところが、『クウガ』でサブPを務め、後に『アギト』『龍騎』『555』のチーフPを務めた白倉伸一郎は、自著『ヒーローと正義』で『クウガ』EPISODE34・35「戦慄/愛憎」を猛烈に批判する。

 法制審議会が「少年法改正のための要綱」を法相に答申した(二〇〇〇年一月二十一日)直後にスタートした(一月三十日)『クウガ』は、少年法改正案が国会に提出される(九月二十九日)の受けるようなタイミングで、少年怪人に怒りをたたきつける第三五話を放送する(十月八日)。「愛憎」とサブタイトルがつけられたこのエピソードにおけるクウガの敵は、少年をつぎつぎと殺戮する少年怪人ゴ・ジャラジ・ダだ。
 この怪人に対し、クウガはあらんかぎりの力でパンチの連打を浴びせかける。怪人がぐったりしたところを、べつの場所に運び、さらに剣でめった斬りにする。地面に倒れ伏した怪人に、馬乗りになって剣を突き立て、ようやくとどめを刺す。
 義憤というのは感情的すぎるほどの怒りの奔流をほとばしらせるかれは、少年犯罪について議論沸騰する社会に対して、明確なメッセージを送っていたといえよう。
 最近の子どもたちはわからない。けれども、人を殺すようなヤツは、少年だろうがなんだろうが、怒りの鉄槌をくだすべきだ!
 と。
白倉伸一郎『ヒーローと正義』より)

 2012年08月08日発売の『ユリイカ』では、國分功一郎が上記見解に賛同していた。

 白倉さんはご著書では触れられていませんが、このエピソードは怪人による少年の殺害を、保育園での子どものケンカと並行して描くというかたちになっている。作り手である大人の作為は見え見えで、悪いことをするやつはタコ殴りをしてぶっ殺すぞ、というのがある一方で、ケンカする二人について五代雄介が言う「人間だから解り合えるよ」というセリフをもう一方のメッセージとして伝える、と。広之くんと周斗くんという子が喧嘩しているんだけど、「周斗くん、ずるいよ。黙りこんだらなにも言えなくなっちゃうじゃないか、でも僕は本当は周斗くんと仲よくしたいんだ」とかまあわざとらしいセリフを言わされて、最後はふたりで積み木の城を作って終わるんですね。白倉さんのご著書を読んだバイアスも多少あるとはいえ、僕もこの話は、懲悪の側に強く同一化した大人の作為というものを感じざるを得ませんでした。もちろん製作者の方は真面目に考えられたんだと思いますが、見ている側としては強い疑問が残ります。
國分功一郎ユリイカ2012年9月臨時増刊号 総特集=平成仮面ライダー』より)

白倉伸一郎:「英雄の殺人鬼への怒りの鉄槌の正当化」に疑問を感じる。
國分功一郎:「懲悪の側に強く同一化した大人の作為」に疑問を感じる。

 これが○一郎コンビの『クウガ』批判である。果たして、高寺成紀は英雄の暴力を正当化する、勧善懲悪の権化だったのか?それでは、『クウガ』の最終エピソードを振り返ってみよう。

■『クウガ』EPISODE48・49「空我/雄介」(+43「現実」)

広之くん 「ねえ先生、4号どこ行っちゃったの?ねえ~!」
みのり先生「どこだろうねえ?」
広之くん 「やっぱり良い奴だったんだよね?」
みのり先生「そうだねえ。でもね、4号は本当はいちゃいけないって、先生は思ってるの。
広之くん 「どうして?0号倒してくれたのに。」
みのり先生「う~ん…。でも、4号なんかいなくていいような世の中が、一番いいと思うんだ。
(『クウガ』EPISODE49「雄介」より)

 高寺成紀は、英雄の暴力を<番組内特殊暴力>と名付けてEPISODE48「空我」までは正当化していた。せざるを得なかった。これが、『クウガ』が<勧善懲悪><民族虐殺>と批判される所以なのだろう。しかし、EPISODE49「雄介」でそれをひっくり返す。最終回で、<英雄の暴力>を否定したのだ。

 子供向けのヒーロー番組において、自由と平和を踏みにじる悪=暴力的行為の実行者に対して、暴力で対抗せざるを得ないのがヒーローなんですよね。突き詰めていけば、『クウガ』の最終回で雄介の妹のみのりがクウガについて言った4号はいないほうがいいという台詞に集約されると思うんです。暴力を否定するならヒーローであっても、いないでほしいということになる。ただ、降りかかる火の粉は払わざるを得ないと。これは『クウガ』の文芸の村山(桂)さんの言い方なんですが、危害がその身に及んだときに何もしないで、なすがままにしていると、より辛い思いをすることになるので、それに対してはモーションを起こさざるを得ない、と。そうしたこともあって悪への対抗勢力として超人になった雄介は、本心とは別に暴力を振るうことになるわけです。こうした矛盾を自分たちは当時、「番組内特殊暴力」と名付けて、48話までは "正当化" することにしていました。
(高寺成紀『仮面ライダーディケイド&平成仮面ライダーシリーズ10周年記念公式読本』より)

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 そして、高寺成紀は<警察の暴力>をも否定している。

バルバリントも、我々と等しくなった。
一条薫「お前達と我々は違う!お前達のような存在がいなければ!」
バルバだがお前は、リントを狩るための、リントの戦士のはずだ。
(『クウガ』EPISODE48「空我」より)

 警察も、犯人逮捕の際には躰道柔術、関節技を駆使することもあるだろう。時には拳銃による発砲、最悪の場合射殺することもあるかもしれない。グロンギがゲゲルでリントを殺す」のも、「警察官が公職で犯罪者を逮捕する」のも、<暴力>を振るうという点では同じだ、ということをバラのタトゥの女は言っているのだ(もし、「犯罪者を逮捕すると階級が上がる」のだとすると、ますますグロンギのゲゲルに近しいことになる)

 また、クウガ/五代雄介のフォーム強化(基本四種(マイティ・ドラゴン・ペガサス・タイタン)⇒ライジング~⇒アメイジングマイティ~⇒アルティメット)とグロンギのゲゲルの進行(ズ集団⇒メ集団⇒ゴ集団(ゲリザギバス・ゲゲル)⇒ン)が並行しているように、警察の武装も回が進むごとに強化されていく(コルトパイソン357マグナム⇒ライフル(未確認生命体鎮圧用特殊ガス弾、プラスチック弾)⇒超高圧ライフル(神経断裂弾))最終的に、人間がヒーローの力に頼らずとも怪人を斃すことができるまでに。グロンギがリントを殺戮する」のも、「警察官がグロンギを退治する」のも、構造的には同一だ。高寺成紀は『クウガ』では徹底的に<非暴力>を訴えており、行使する者が誰(英雄・怪人・警察)であれ暴力は悪しきこと、という通念を貫いているのだ。

 そして超人ではないけれど、番組内特殊暴力を振るう人間の代表が一条で、その矛盾をわかっていながら銃を撃つと。そんなことから最終回と対の関係になっているのが「現実」(第43話)というエピソードです。雄介は、いずれグロンギとの戦いが終わると解放されるというか…実は解放されないんだけれど、作品内的にはお役御免になる。でも一条は解放されません、と。犯罪者がいる以上、警察はある。一条は正義を信じているのに、正義が貫かれない世の中がずっとある。この苦しみと悲しみからは誰が解放してくれるのか、ということを言おうとしていました。
(高寺成紀『仮面ライダーディケイド&平成仮面ライダーシリーズ10周年記念公式読本』より)

■「荒川 稔久」と「國分功一郎

 全体的には人間のなかにある暴力性をテーマにするという、アクションヒーローものとしてはかなり大胆な切り口で、しかも途中からは敵も「怪人」ではなく、殺人を楽しむ変身可能な「人間」であることを定着させています。当初は、だからこそ人殺しを続けてしまった雄介が最後に自らの命を封印してすべてを終わらせる、という結末を想定していたんです。ところが1年間という長丁場のなかで、やはり、それじゃああんまりだということになり、最終回では旅に出た雄介が子供たちに癒されるという描写に落ち着きます。この点については、ずっと悩んでいました。ホッとできてよかったような気もするし、テーマを貫けなかったという面もあるし。
荒川稔久仮面ライダー 平成 vol.1 仮面ライダークウガ』より)

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 仮に、当初のエンディング通りだったら、今ほど『クウガ』が<勧善懲悪><民族虐殺>と批判されることはなかったのだろうか?いや、気に入らない人は、とことん難癖を付けて、受け入れないだろうな。國分功一郎も、『クウガ』EPISODE34・35「戦慄/愛憎」についてこう批判しているし。

 あの怪人は九〇人も殺すんですよね。ハンパない数ですよ。これはやっぱり「九〇人も殺したらさすがに文句言えないでしょ、殺してもいいでしょ」というメッセージなわけですよね。そりゃあ「九〇人も殺せばまあ死刑でしょうね」ってみんな思いますよ。いちばん納得がいかなかったのは、最後に五代雄介が「俺は正義の鉄槌を下す悲しみを感じてるんだ」みたいなわざとらしい顔をして海に向かってたそがれているんですよね。あれはちょっとズルいんじゃないかと。
國分功一郎ユリイカ2012年9月臨時増刊号 総特集=平成仮面ライダー』より)

 もし、氏のお気に入りである『アギト』『龍騎』『555』が下記のように批判されていたら、どういうリアクションをとるのだろうか?例えば、『アギト』第47~51話の闇の力(テオス)について。

 あの怪人は蠍座の人間を殺すんですよね。ハンパない数ですよ。これはやっぱり「蠍座の人間を殺したらさすがに文句言えないでしょ、殺してもいいでしょ」というメッセージなわけですよね。そりゃあ「蠍座の人間を殺せばまあ死刑でしょうね」ってみんな思いますよ。いちばん納得がいかなかったのは、最後に沢木哲也が「きっと俺が、勝つさ!」というわざとらしいセリフを吐いて闇の力に向かってたそがれているんですよね。あれはちょっとズルいんじゃないかと。

 例えば、龍騎』の浅倉威/王蛇について。

 あの人間は大量殺人鬼なんですよね。ハンパないですよ。これはやっぱり「大量殺人鬼ならさすがに文句言えないでしょ、殺してもいいでしょ」というメッセージなわけですよね。そりゃあ「大量殺人鬼ならまあ死刑でしょうね」ってみんな思いますよ。いちばん納得がいかなかったのは、最後に浅倉威がライダーバトルではなく警察機動隊に射殺されて死んで、神崎兄妹による新たな世界では普通の人間として生きてるんですよね。あれはちょっとズルいんじゃないかと。

 例えば、『555』第17話(森下義正/アルマジロオルフェノクVS乾巧/ファイズについて。

 あの怪人は大学生達を殺すんですよね。ハンパない数ですよ。これはやっぱり「大学生達を殺したらさすがに文句言えないでしょ、殺してもいいでしょ」というメッセージなわけですよね。そりゃあ「大学生達を殺せばまあ死刑でしょうね」ってみんな思いますよ。いちばん納得がいかなかったのは、劇中で乾巧が「戦うことが罪なら、俺が背負ってやる!」というわざとらしいセリフを吐いてクリムゾンスマッシュするんですよね。あれはちょっとズルいんじゃないかと。

 …穿ち過ぎ?でもそういうことでしょ?

■「主観的感情論」VS「客観的類似例」

――もしも人間と同じ姿をした未知の生物が現れて、人間を殺し始めたらどうするのかと考えると、『クウガ』のように警察としては駆逐するしか方法がないでしょうね。
切通 グロンギを同じ人間として捉えたら、あれは民族虐殺なのかもしれない。ただ、僕はその起源をもう少し問い直したいんですよね。
 これは当時、小中千昭さんが言ってたことなんですけど、なぜ今の時代になってもラヴクロフトのクトゥルー神話みたいなものを多くの作家が描き継いでいるのかっていうと、ラヴクロフト本人は遺伝的な優生思想の持ち主でもあったんだけど、闇の恐怖や未知の怪物というものに対する一種の裏返しのロマンだと。そういうロマンや異なるものへの畏敬をいつまでも失いたくないという思いがあって、古くて新しいものにかたちを与えている。
 90年代の怪獣や怪人への捉え直しには、そういう流れがあったと思うんで『クウガ』のグロンギというのは、その怪人版だったんじゃないかなって。
 そこの文脈を踏まえていないと、たとえば國分功一郎さんのように勧善懲悪を補強するものだという解釈になってしまうと思うんですよね。戦後民主主義的な価値観というか。
――國分さんとは、クウガグロンギに対して憎しみを炸裂させた34話「戦慄」と35話「愛憎」の前後編の解釈をめぐって、ツイッターで意見交換をされてましたよね。
切通 その時に感じたんですけど、今は逆に、あの時代の感覚が辿りにくくなっちゃっているのかもしれないですね。クウガ』は未知なる存在と人間が戦う話でしたけど、その後の平成ライダーでは、敵も同じ人間という流れが主流になってますから。
切通理作『語ろう!クウガ・アギト・龍騎 【永遠の平成仮面ライダーシリーズ】』より)

 何故、切通理作はラヴクロフトの『クトゥルー神話』等を引き合いに出さねばならなかったのか?それは、宇野常寛國分功一郎が高寺成紀<アンチ>かつ白倉伸一郎<信者>で、<主観的感情論>に囚われているからに他ならない。ご両名、片や評論家かつ編集者、片や哲学者かつ准教授で、大変アタマのイイ方々である。制作者の意図を見抜いた上で、口を揃えてこう言い放つのだ。
俺のことを好きにならない人間は邪魔なんだよ!
お前の言うことは正しい。だが…気に食わない!
黙れ!俺は常に正しい!俺が間違うことはない!
と。それに切通理作が対抗するためには、スーパーロボットモノや平成ウルトラマンシリーズのような、<客観的類似例>を出すしかなかったのだ。

■『泣いた赤鬼』と『桃太郎』

 現実世界においてはともかく、わたしたちがテレビで見たがっているのは、清廉潔白で品行方正な聖人の生活ではなく、「型破り」な刑事や教師だったり、「変身する」ヒーローだったりする。
 わたしたちが、そうして渾沌を愛しているうちは、まだ望みはある。
 ヒーローもののような物語がキーとなりうる。
 桃太郎と『ないたあかおに』。両方あいまって、子どもたちは、「鬼」がかならずしも一方的に断罪すべき〈悪〉とはいえないことを知る。そうした相矛盾する二つの物語を持てたことは、子どもたちの未来のために喜ばしいことなのだ。
 ヒーローは両義的であり、渾沌である。
 そのことを通じて、子どもたちは「渾沌が悪・秩序が正義」と断じる、単純で美しいけれども、同時にとほうもなく危険きわまりない世界観から解放されるかもしれない。

 ヒーローたちよ、渾沌であれ!

 と、子どもたちの未来のために願う。
白倉伸一郎『ヒーローと正義』より)

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 高寺成紀の仮面ライダーは『泣いた赤鬼』である。戦士(クウガ)も鬼(音撃戦士)も民(友)の為に拳を振るうのだ。

 白倉伸一郎仮面ライダーは『桃太郎』である。「同族同士の争い/親殺し/自己否定」という3つが根底にあるのだ。

 つまり、高寺成紀チーフP作品の次に白倉伸一郎チーフP作品が放送されるのは、白倉P作品の次に高寺P作品がやるのは、子供達の未来のために喜ばしいことだと言っているのだ。…そんなことまでは書いていないが、俺はそう受け取った!

 それでも、ファン同士の争いは絶えない。クウガ』『アギト』『龍騎』放送時は昭和派が悲憤慷慨としていたし(こんなの仮面ライダーじゃない!そもそも仮面ライダーとはバッタの改造人間でありサイボーグの悲哀がうんぬんかんぬん…が常套句)、平成一期内でも高寺派と白倉派の対立があった。『W』が始まると、平成一期派と平成二期派の諍いが起こり、平成二期内でも塚田・三条派とそれ以外でいがみ合いがある始末。戦争が無くならないわけだよこりゃ。

 どの作品にも良し悪しがあるわけで、己の好き嫌いに囚われず、良い面も悪い面も認める<寛容>さが、最も必要で重要なものなんだと思う。…とか言って、『鎧武』や『ドライブ』をボコしてる俺が言っても、説得力が無いかもしれんがね…!

[了]

※はじめましての方はこちらをご一読ください。

sebaooo-tatoba-combo.hatenablog.jp