千倍王鷹虎蝗合成獣

平成仮面ライダーの感想・考察サイト。衒学的で悪し様で居丈高な語り口のブログにようこそ。

『クウガ』英雄と怪人と警察の「暴力」

  たまには昔の作品の話を。今回は『仮面ライダークウガ』(以下『クウガ』)。ネタバレ有りなのでご注意を。

■『クウガ』と勧善懲悪と民族虐殺

 『語ろう!クウガ・アギト・龍騎』にて、切通理作がこんな話をしていた。

 引用その1。ちなみに、下記の"宇野さん"とは宇野常寛のことね。

切通 (中略)少し前にも、ニコ生で宇野さんと「平成仮面ライダーを語る」って対談をしたんですけど、『クウガ』について熱く語っていたら、書き込みで「クウガの話ばかりしてないで次の話題に行ってくれ!」と言われちゃって、もっと喋りたいのになって(笑)。
――今日は存分に語っていただければと思います(笑)。あの対談では『クウガ』については、かなり意見が分かれてましたよね。宇野さんは人間が容赦なくグロンギを滅ぼす民族虐殺のような話に見えてヤバいと思ったと仰っていて、切通さんはそれに対して反論されてて。
切通 その後の平成ライダー作品と比べると『クウガ』は勧善懲悪的に見えるという意見は、僕も理解できるし、そういう考え方もあるんだなぁとは思うんですよ。
 でも、たとえばファーストガンダムにしても、今から振り返ると旧来のロボットアニメの要素を残しているところってかなりあるじゃないですか。すべてを一度に新しくすることはできないし、当時の体制であれだけ出来れば、ひとつの改革だったと思うし。あの時点でいきなり『イデオン』をつくっても、理解されたかっていうと、それってかなり難しいじゃないですか。
――『ガンダム』の後に見ても、かなり難解ですもんね。
切通 『イデオン』であれだけ哲学的な話を展開できたのは、やっぱりファーストガンダムという下地があってこそだと思うんですよね。それでも『ガンダム』は同じ富野さんの問題作『ザンンボット3』や快作『ダイターン3』と比べても革新的に新しかったわけで。
 それと同じように『クウガ』の改革を基にして、たとえばその時点ではまだやらなかった連続ドラマ的な試みを『アギト』でやったり、『アギト』のライダー同士のバトルをさらに発展させて『龍騎』になったりしたと思うんです。
切通理作『語ろう!クウガ・アギト・龍騎 【永遠の平成仮面ライダーシリーズ】』より)

 引用その2。

――もしも人間と同じ姿をした未知の生物が現れて、人間を殺し始めたらどうするのかと考えると、『クウガ』のように警察としては駆逐するしか方法がないでしょうね。
切通 グロンギを同じ人間として捉えたら、あれは民族虐殺なのかもしれない。ただ、僕はその起源をもう少し問い直したいんですよね。
 これは当時、小中千昭さんが言ってたことなんですけど、なぜ今の時代になってもラヴクロフトのクトゥルー神話みたいなものを多くの作家が描き継いでいるのかっていうと、ラヴクロフト本人は遺伝的な優生思想の持ち主でもあったんだけど、闇の恐怖や未知の怪物というものに対する一種の裏返しのロマンだと。そういうロマンや異なるものへの畏敬をいつまでも失いたくないという思いがあって、古くて新しいものにかたちを与えている。
 90年代の怪獣や怪人への捉え直しには、そういう流れがあったと思うんで『クウガ』のグロンギというのは、その怪人版だったんじゃないかなって。
 そこの文脈を踏まえていないと、たとえば國分功一郎さんのように勧善懲悪を補強するものだとう解釈になってしまうと思うんですよね。戦後民主主義的な価値観というか。
――國分さんとは、クウガグロンギに対して憎しみを炸裂させた34話「戦慄」と35話「愛憎」の前後編の解釈をめぐって、ツイッターで意見交換をされてましたよね。
切通 その時に感じたんですけど、今は逆に、あの時代の感覚が辿りにくくなっちゃっているのかもしれないですね。『クウガ』は未知なる存在と人間が戦う話でしたけど、その後の平成ライダーでは、敵も同じ人間という流れが主流になってますから。
切通理作『語ろう!クウガ・アギト・龍騎 【永遠の平成仮面ライダーシリーズ】』より)

 これを読んで俺は思った。「なに、宇野常寛國分功一郎は『クウガ』を勧善懲悪的で民族虐殺の話に見えてヤバいと思ってんの!?」「そして、切通理作はそれを論破するためにこれだけ理屈をこねくり回さないといけないの!?」と。どれもこれも的外れである。何故なら、『クウガ』という作品は、「警察が暴力を振るうことも是としていない」からだ。

■『クウガ』と警察とグロンギのゲゲル

 「リントも変わったな。」クウガ』の"バラのタトゥの女"こと「ラ・バルバ・デ」の台詞である。これはどういう意味か。

 そもそもグロンギが九郎ヶ岳遺跡に「封印」されていたのは、リントに「殺人」という概念が無かったから。それが時が経つにつれ、リントの子孫たるヒトが闘争にまみれていったのは周知の事実。人間の歴史は戦争の歴史と言っても過言ではない。世界大戦以後、日本は戦争を放棄したけれど、殺人事件が無くなることはなかった。90年代の「地下鉄サリン事件」や「酒鬼薔薇聖斗事件」などが顕著な例ね。『クウガ』がそれを受けて作られたのは明々白々。グロンギとは「90年代の恐怖=殺人鬼」だ。しかし、『クウガ』の特筆すべき所は、グロンギのゲゲルのような『暴力』は悪」ということだけでなく、クウガ/五代雄介もまた『暴力』をふるう存在」ということを同時に描いていることだ。

 例えば、自分は『クウガ』のEPISODE10「熾烈」が好きなんだけど(余談だけど、初めてサブタイトルを見た時、「"熾烈"なんて二字熟語がこの世に存在するのか!カッケェ!」と厨弐心を擽られた)、五代みのりが勤めているわかば保育園にて、女児がいじめっ子(※便宜上こう書く)に読んでいた絵本を奪われちゃうのね。そこに、別の男児が「とりかえしてきてあげる!」「だってボク4号だもん!」と言っていじめっ子から絵本を取り戻そうとするんだけど、それが段々エスカレートしていって、仕舞いには4号を名乗った男児が、奪い返した絵本でいじめっ子を叩こうとするのよ。みのりちゃんが間に入ってその場は収まったんだけど、このエピソードの肝は、「抑止のためとはいえ、正義のお題目を掲げたとしても、暴力をふるうことは悪」だということだ。それを、メイン視聴者たるチビっ子達と同年代の「保育園児の喧嘩」で描いたところに、高寺成紀の熱意というか、こだわりを感じるね。EPISODE34「戦慄」35「愛憎」や、「クウガアルティメットフォーム≒未確認生命体第0号(ン・ダグバ・ゼバ)」だというその後の展開は、「ヒーローも怪人も暴力をふるうことに変わりない」ということを如実に表してる。最終話(EPISODE49「雄介」)の帰結はもっと凄い。「四号(クウガ)がいなくてもいい世界が一番いい」だもんね。これは、井上敏樹「ヒーローなんかいない方がいい。ヒーローとはすなわち怪人だから。」という持論に近しいものがあるな。

 そして、上記の"ヒーロー"は「警察」に置き換えられる。EPISODE48「空我」にて(これもまたスゲェ副題だよな…!)、バルバは「(警察は)リントを狩るためのリントの戦士」という発言をしている。警察も、犯人逮捕の際には躰道柔術、関節技(≒暴力)を駆使することもあるだろう。時には拳銃による発砲、最悪の場合射殺することもあるかもしれない。要するに、グロンギがゲゲルでリントを殺す」のも、「警察が公職で犯罪者を逮捕する」のも、「暴力をふるう」という点では同じだ、ということをバラのタトゥの女は言っているのだ(警察の内実は知らないけれど、「犯罪者を逮捕すればするほど階級が上がり出世する」となれば、ますますグロンギのゲゲルに近しい事になるね…!)そして、クウガ/五代雄介のフォーム強化(基本四種(マイティ・ドラゴン・ペガサス・タイタン)⇒ライジング~⇒アメイジングマイティ~⇒アルティメット)とグロンギのゲゲルの進行(ズ集団⇒メ集団⇒ゴ集団(ゲリザギバス・ゲゲル)⇒ン)が並行しているように、警察の武装も回が進むごとに強化されていく(コルト・パイソン⇒ライフル⇒神経断裂弾)最終的に、人間がヒーローの力に頼らずとも怪人を斃すことができるまでに。グロンギが人間を殺戮する」のも、「警察がグロンギを退治する」のも、構造的には同一だ。

 高寺成紀はクウガ』では徹底的に「非暴力」を訴えており、「行使する者が誰(英雄・怪人・警察)であれ、暴力は悪しきこと」という通念を貫いている。高寺成紀は「勧善懲悪なヒーロー」を肯定なんかしていないのだ。

■高寺派と白倉派とバイアス

 なんか「アララギ派白樺派」みたいな書き方になっちゃったけど、平成一期初期仮面ライダーってどうしてもこの二つに分かれちゃうと思うのよね。高寺派は『クウガ』『響鬼(前期)』ファンで、白倉派は『アギト』『龍騎』『555』ファンということ。『剣』はちょっと今回は除外。で、高寺派にとっては「白倉P作品は美しくない!」だろうし、白倉派にとっては「高寺P作品は面白くない!」という感想になる。高寺派と白倉派は相容れない、と思う。それはある意味当然なのかもしれない。だって、高寺成紀と白倉伸一郎は性格も違えば作風も異なるからね。ちなみに自分は「やや白倉派」。でも『クウガ』は好きよ?(『響鬼』はちょっと残念だったね)

 何が言いたいかというと、宇野常寛國分功一郎「高寺アンチで白倉シンパ」なんだろうなということ。おそらく、両者は白倉P作品に感銘を受けて『平成仮面ライダー』に入った口だから、高寺P作品に批判気味なのだろう。『クウガ』を視聴する際に、「バイアス」がかかっているのだ。

 切通理作切通理作だよ。富野由悠季作品やクトゥルー神話を例に出して、「当時の体制であれだけ出来ればひとつの改革だった」だの「あの時代(90年代)の感覚が辿りにくくなっちゃっている」だの……!『クウガ』や高寺成紀を擁護しようとしてるのはわかるが、これじゃあ「『クウガ』はホップ・ステップ・ジャンプの"ホップ"だから甘めに見ないと!」「今の若い人達には、『クウガ』の良さは理解できないんだろうな~!」って言ってるようなもんじゃあねぇか!

 クウガ』と『アギト』『龍騎』『555』は、「描き方が違う」だけなのだ。白倉伸一郎は「暴力をふるうか?/ふるわないか?」という選択というか、「ジレンマ(葛藤)」をドラマに組み込む傾向があるけれど、高寺成紀は「暴力はふるうもの/ふるわざるをえないもの」、すなわち「ヒーローと怪人と警察に徹底的に暴力をふるわせる」ことで、逆説的に暴力を批判しているのだ。

 宇野常寛國分功一郎の、「『クウガ』は民族虐殺に見えてヤバい」という反応は、ある意味正しい。けど、なんでそれが「故に『クウガ』は勧善懲悪的で『アギト』『龍騎』『555』に劣る!」という結論になっちゃうんだろう…?しかも、こうやって作品の本質を理解しないで一方的に糾弾することは、「あちら側が悪でこちら側が正義と決めつけてはならない!」という、『アギト』『龍騎』『555』のテーマを全く理解していないということと同義よね…!もっとも、白倉伸一郎自身が、けっこう高寺成紀アンチなんだけどさ(苦笑)

 「バイアス」というのは人の目を曇らせるな…!俺も気を付けよう。

■ところで、『クウガ』の劇場版はまだですか?

 や、真面目な話、実現しないかな?と思っている。「何をやるのか?」って?荒川稔久が書いた『小説仮面ライダークウガ』をだよ!あの内容なら、オダギリジョーも最後の最後にちょっと出るだけでいいし、スケジュール調整し易いでしょ?(笑)敵のグロンギに人気アイドルや有名俳優を起用して話題作りしてさ。高寺成紀を制作に係わらせたら、ヤバそうだけど…!どうですか、井上伸一郎さん?(笑)

[了]